西欧の立憲主義と日本の歴史の双方に立脚していた教育勅語。起草したのは井上毅
教育勅語を最初に必要としたのは、各府県知事たちだった
教育勅語のできる前、つまり明治の初期は、欧米の文化が猛烈な勢いでなだれ込んでくる時代でした。
そんな中で起こっていたのは教養人や教師たちによる「自虐」。
日本人は劣等な国民なので、過去の習俗を全て無くして欧米化してしまいたい。
欧米化をすることで、日本の歴史というのは始まるのだ、という言説がまかり通っていました。
つまり、過去の否定ですね。
そこで何が起こっていたか、というと、
「小学生は父兄を軽蔑し、中学生となると、自分で校則を破りながら、教師の処置が不当だと言って騒ぐものまでいた。」
これを「知育の偏重に対する、徳育の欠落」として危機感を抱いていたのが、各府県知事たちでした。つまり、このままでは社会秩序が乱れ、国家の存続すら危うくなる、ということです。
この時の教養人たちに言わせると、もしかすると日本が乱れて、欧州列強の植民地となり、奴隷としての生活を送る方が幸せだったのかもしれませんが・・・
(もし、欧州列強に支配されても市民として生きられる、と思っていたのなら、お花畑もいいところですね。)
この様相を見たドイツ人医師のベルツは、こう言っています。
「ヨーロッパ文化のあらゆる成果をそのままこの国へ持ってきて植え付けるのではなく、まず日本文化の所産に属する全ての貴重なものを検討し、これをあまりに 早急に変化した現在と将来の要求に、ことさらにゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。」
ヨーロッパ人からすれば、日本の文化だって、レベルが高いわけです。
なのに、一生懸命、自国の文化を破棄し、欧米の価値観に染まろうとする。
そこに何か危険を感じたのでしょう。
徳育の規範となり、かつ、良心の自由を尊重する「天皇の願い」
教育勅語の策定には井上毅が中心となりました。
井上毅は、大日本帝国憲法や、皇室典範の起草についても重要な役割を果たしています。
どういう人か?というと、
西欧の立憲主義に造詣が深く、日本の国史、古典の研究も行っていた、という人です。
「教育勅語」起草にあたり、留意した7つのポイント
1. 立憲君主制においては天皇といえども、「臣民の良心の自由に干渉せず」。
政治上の命令と区別して、社会上の君主の著作公告と位置付けるべき、ということ。
2. 宗教論争の種となるような語は避ける
3. 幽遠深美な哲学上の理論も避ける
4. 政治家の勧告を疑わせるような政治的な臭みを帯びた表現を使わない
5. 漢学や洋風になずんだ物言いはしない
6. 愚かなことや悪を非難するような消極的な教訓は控える
7. 世上多くの宗派の中の一派を喜ばせて他を怒らせるような言葉があってはならない
この7つの点は、非常に納得感のあるものではないでしょうか。
「真に叡慮に出で、天皇親しく国民に訓示せられたるものになるに因る」
立憲君主の原則を堅持して、良心の自由を尊重し当該直後に法的強制力を持たせないとの井上の建てた方針が、確かに貫徹されたものでした。
ここまで、良心の自由、つまり、基本的人権に配慮をしたものであったとは、知らない人の方が多いのではないでしょうか。
現代で大日本帝国憲法(明治憲法)や、五箇条の御誓文、教育勅語などを批判するときに、現代の価値観にて、その言葉尻を勝手に解釈して批判している人があまりに多いようですが、どのようなは時代背景と、どのような思想背景で生まれたものなのか、ということは考えなくてはならないと思います。
<参考文献>より詳しく知りたい方は、天皇から読み解く日本、をどうぞ
- 作者: 高森明勅
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2002/07
- メディア: 単行本
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