昭和天皇も、東宮御学問所で教育勅語を学んでいた
京都御所の写真 – 宮内庁より、御学問所(東宮御学問所ではない)
昭和天皇は、13歳から19歳までの7年間、東宮御学問所という生徒数6名の学校にて、勉強していた。(この当時の呼称であれば裕仁親王と称するのが、正しいかもしれませんが、簡単のため、昭和天皇と統一します。)
そこにいたのは、若き日の昭和天皇と、学習院初等科の5名の学友。計6人。
ここで行われていた授業科目は、
倫理、国文、漢文、歴史、地理・地文、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済、武課、体操、馬術、軍事講話。
馬術と軍事講話以外は、普通の中学校の科目と一緒であり、フランス語が選ばれているのは、世界に通じる君主の外国語は当時はフランス語と考えられていたためだそうです。
教育内容は中学校と同一であっても、あくまでも、昭和天皇の帝王教育、つまり、英名にして高い徳を備えた君主の育成、というのが最大の目的でした。
中でも「倫理」の授業は帝王学の根幹として、教師の選定から、適材とはどのような人間か、という点で難航し、結果杉浦重剛が選ばれました。
これについては、詳しくは以下の「天皇の学校」という本に書いてあります。
今回は、教育勅語をテーマにするため、こちらの本の書評は追って行います。
御学問所の授業は、教師が自由に行うことの許されない、厳密さがありました。
つまり、原稿を書き、講義のリハーサルを他の講師の前で行い、問題のないことを確認した上で昭和天皇への講義を行なう、というものです。
- 作者: 大竹秀一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/01/07
- メディア: 文庫
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その中でも、特に帝王学の根本として重視されていた倫理の授業においては、最初の12回をかけて、教育勅語を解釈していきます。
それだけ、「昭和天皇本人が教育勅語を学ばれること」が、重要なことと認識されていたことがわかります。
赤旗、共産党議員、毎日新聞、朝日新聞の論に踊る言葉
森友学園騒動により、改めて脚光を浴びた、教育勅語
森友学園の話題にて、現在メディアも国会も大にぎわいです。
槍玉に上がっていることの一つに、森友学園の教育方針として、五箇条のご誓文や、教育勅語を幼児に暗唱させていた、ということがあります。
私立の幼稚園であれば、聖書を暗唱させ、賛美歌を歌うカトリック系のところもあれば、お経を読むような仏教系のところもあります。
これは、選ぶ保護者の自由ではないか、と思いますが、そうは捉えられていないようです。
だったら、金正日万歳の朝鮮学校はどうなんだ?という話もありますが、そんなことには全く触れられていません。(北朝鮮は日本国民を拉致している犯罪国家、テロ国家であることは、否定しようのない事実だと考えています。)
教育勅語は、「天皇のために命を投げ出せ」という「滅私奉公」の極地?
共産党の議員をはじめとして、教育勅語の内容を起点にして、安倍晋三首相や、稲田朋美防衛大臣を攻撃する論調が目立ちます。
この問題は、9億円の国有地が、なぜか8億円も値引きされた引き払われたことがポイントであって、この学校で何を教えていたか、ではない気がしますが、そういう状態です。
共産党の井上哲士氏が「重大事態があれば、天皇のために命を投げ出せ」との趣旨も取り戻すべきかと質問した
稲田防衛相、教育勅語の復活「全く考えず」 :日本経済新聞
作曲家の伊東乾は、神風特攻隊の滅私奉公の精神を、一向一揆と結びつけて教育勅語の精神の極地と論じています。
この理不尽な命がけの「滅私奉公」は、まさに教育勅語に記されている精神具現化の極限であるとともに、蓮如以来の一向宗、あの信長が往生し和議を結ぶしかなかった浄土真宗の強烈なメディア影響力とまさに同質の側面を指摘できるでしょう。
加賀一向一揆や石山合戦で恐れられ、第2次大戦末期に諸外国から恐怖されたのと同様の狂信的な自己犠牲、自爆攻撃にすら直結する本質のすべてが、あの短い文の中に洩れなく記されている。
世界に恐れられた「カミカゼ特攻隊」の精神的支柱 徳もあるから信じ込まされた「教育勅語」真の狙い | JBpress(日本ビジネスプレス)
朝日新聞の2017年3月10日の社説でも、同様の点、つまり「いざという時に天皇に命を捧げよ」ということが最大の焦点となっている。
親孝行をし、夫婦仲良く。そんな徳目が並ぶが、その核心は「万一危急の大事が起こったならば、大儀に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為(ため)につくせ」(戦前の文部省訳)という点にある。
いざという時には天皇に命を捧げよ――。それこそが教育勅語の「核」にほかならない。
稲田氏のいう「道義国家」が何なのかは分からない。ただ、教育勅語を「全体として」(稲田氏)肯定する発言は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という憲法の理念と相いれない。
教育勅語は終戦後の1948年、衆院で排除の、参院で失効確認の決議がされた。衆院決議は勅語の理念は「明らかに基本的人権を損ない、且(か)つ国際信義に対して疑点を残す」とした。
昭和天皇は、教育勅語とはどういうものとして教わっていたのか?
教育勅語の口語訳
「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」
前述の社説などで焦点が当たっていたのは、12の徳目の最後義勇の部分にあたります。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
~国民道徳協会訳文による~
教育勅語は11回に分けて教えられた
第1回:朕〜徳
第2回:忠・孝
第3回:国体
第4回:孝道・孝行
第5回:友愛・夫婦
第6回:友情
第7回:恭倹
第8回:博愛
第9回:修学〜徳器
第10回:公益〜国法
第11回:義勇〜一徳
第1回:朕惟ふに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり
教育勅語の講義では、それぞれの言葉が指し示している意味の説明と、その内容を象徴するような事例の2つが大きな内容です。
なぜ教育勅語が必要だったのか?
第1回では、なぜ、教育勅語が必要だったか、ということが述べられています。
簡単に言えば、西洋文化に心酔し、日本古来の文化をないがしろにする人が、特に知識層に多く発生した、ということが挙げられます。
教育方面においても、忠孝・節義・誠実といった日本の美風が損なわれようとしていました。
そこで、日本の歴史的精神、国体の精華、国民道徳の大本として、示されたのが教育勅語でした。
確かに、日本では宗教戦争というのはほとんど行われていません。奴隷貿易や、奴隷の使役といった文化もありません。
それに対してヨーロッパはどうだったでしょうか?カトリック一つをとっても、十字軍、免罪符など、今でいう人権蹂躙の事例を持ってくるのに枚挙にいとまがありません。
だとすると、科学が発展している、という点が魅力的だったとしても、日本の心も忘れるべきではない、と考えても不思議ではなさそうですね。
「朕」とは君主のみに許された無二の一人称
朕の由来は、秦の始皇帝でした。しかし、ユーラシア大陸極東では、王朝がめまぐるしく入れ替わり、乱立し、分裂し、ということが繰り返されてきました。
つまり、唯一無二の状態を作り出せていないということです。
そのため、朕の意味を正しく使えているのは、日本国だけであり、万世一系の天皇が君臨していることによる、と説明されています。
「我が」は「複数形」であり、天皇だけを表した言葉ではない
上で紹介した和訳でも、
「私達の祖先が」と訳されています。
つまり、「朕」とは打って変わって、天皇のみをさしていないことになります。
この部分を、高橋源一郎氏は以下のように訳しています。
教育勅語①「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2017年3月15日
つまり、「我が」=歴代天皇、という解釈です。
しかし、杉浦教育勅語では、全く異なることが論じられています。
「朕」と「我が」が日本の国体の特徴を示している
「朕」により、日本の君主が万世一系の天皇であることを示し、
「我が」により、日本の一大家族制を示している。
つまり、天照大神は、皇室のご先祖であると同時に、日本臣民の祖先でもある。
こう述べられています。
つまり、皇室は、日本の本家であり、それ以外は全て分家である。
日本とは大きな家族なのだ、ということが述べられているということです。
皇祖皇宗とは「歴代天皇」ではなく、「天皇と日本国民の先祖」を表す
先にあげた高橋源一郎氏の訳ではこの部分は、
もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました?
とされています。
しかし、「皇祖皇宗」とは、天皇と日本国民の先祖を表している、というのが正式な見解です。
(東宮御学問所の見解が違ったらどうしようもないでしょう。)
つまり、天皇が君主として、国民とともに支え合ってこの国を作ってきたんだよ、ということです。
これは、ヨーロッパの領民は領主の持ち物、という概念とは異なります。
人として尊重されているから、敬意を返すという、良い循環が巡っていた、ということでしょう。もちろん、このような理想論が2600年以上常に行われていたわけではないでしょう。
ただし、これを理想としていた、あるいはこれが理想として教えられていた、ということが、戦国時代でさえ、天皇の地位は揺るがなかった、ということにも繋がるのかもしれません。(今度は、戦国大名と天皇の関係を記した、象徴天皇の源流読みたいと思います。)
「樹つる」が表す皇室の特色
権力者に押さえつけられていると、不満を持った民衆は反撃の機会を待つことになります。
しかし、天皇は、仁愛を民の心に深く厚く植え込んできたから、確固たる一体感が出来上がってきた、ということが述べられています。
これは、東日本大震災の時の今上天皇陛下の訪問が、被災者の心を癒した、ということにも現れているのではないかと思います。
例えば、第16代仁徳天皇の逸話というのが、よく取り上げられます。
民のかまどの話です。
仁徳天皇と民のかまど
仁徳天皇がふと外を見ると、ご飯どきなのにかまどの煙が立っていないことに気づきます。
理由を聞くと、貧しさで米を炊くものがいない、ということです。
そこで仁徳天皇は、3年間、無税にします。
そして、御所が崩れようと、ボロくなろうと、倹約の限りを尽くします。
そして3年後、豊作の年も迎え、百姓たちの生活は豊かになりました。
再び外を見ると、米を炊く煙が立ち上っていました。
仁徳天皇は大いに喜びました。
しかし、まだ、百姓から貢物を受け取りませんでした。
そしてさらに3年後、初めて、宮殿修理のため、人を使いました。
その時は、感謝を込めて、国民みんなが協力しました。
こんなお話です。
税金を受け取らずに突っ返す、なんて信じられないことをやってのけています。
天皇は日本という一家の大黒柱として、国民のことを考えるから、国が豊かになる
つまり、こういうことですね。
明治維新後の日本は、欧米列強から見ても大変な脅威となるような発展を遂げます。
それを天皇が牽引したか、と言われたら、そうではないかもしれません。
ただ、天皇を国民統合の象徴として、外国と戦い、国民が奴隷として扱われたり、日本を植民地にされるという危機を乗り越えてきたのは、明治・大正・昭和の事実です。
その中で、今語られている教育勅語と実際に昭和天皇が学んだ教育勅語と、どのような違いを持って語られているのか、考えていきたいと思います。
教育勅語を考える、その2に続く
教育勅語―昭和天皇の教科書 (べんせいライブラリー 教科書セレクション)
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