くじ引き将軍、足利義教とは?
足利義満の五男。
第4代将軍となった、足利義持、天皇に祭り上げようとした、鶴若丸、の次の息子です。
父である、足利義満の寵愛を受けることなく、仏門に入ることを運命付けられていました。
しかし、足利義満は、天皇の地位を脅かそうとしたために、暗殺の憂き目にあいます。
このような強権者がいなくなると、その意によって祭り上げられていたものにはなすすべもありません。
三代将軍足利義満と、六代将軍足利義教の共通点
実は、この義満の話から始まるのは、とても大きな意義があります。
この時、幼き日の足利義教、10歳の春寅は、義満の政治に対し、批判します。
それは、公武融合の危険性についてであり、とても先進的な概念を述べています。
公武融合とは、足利義満が目指したものです。
公武融合とは、将軍の地位を持つ足利家が、天皇の地位もどちらも占める、というものです。権威も権力も持っている、詰まる所、普通の王室になろうとしました。
三代将軍足利義満の暗殺
魔将軍の中では、足利義満は、それまで権威を持っていた、皇室、公家の存在を脅かしたがために、暗殺された、ということが描かれています。
それも、忠臣としてそばにいた、一条がその中心となっていたことが暗に描かれています。
六代将軍足利義教の暗殺
それに対して、義教はどうでしょう?
義教は、天皇の権威と、将軍の権力を分離してこそ、天下泰平が保たれる、ということを幼い時から主張していました。おそらく、その考えは将軍になってからも全く変わることはなかったでしょう。
さらに、将軍の権力が他を圧倒すること、つまり、誰も将軍に歯向かおうとしない状態を作ることが肝要と考えていたようです。
天皇からの最高の権威である、「征夷大将軍」の位と、将軍の権力を裏付ける、最強の武力、政治力を合わせた者だったのか、それとも将軍の名の下に強烈な権威を持つのか、そのイメージまではつきませんが。
そして、その将軍家による天下統治の形は、寸前まで整っていました。
周囲を圧倒するほどの速度で、体制をどんどん整えて行ったのです。
しかし、体制の確立半ばで、暗殺されてしまいます。
暗殺した守護大名は、赤松満祐。
足利義持に冷遇され、義教には重用された、という背景を持ちます。
有力な4守護大名である四職の一角であり、魔将軍の中では、義教を信頼し、敬愛する姿が中心として描かれています。
しかし、結局は、この赤松満祐によって、義教は暗殺されました。
信じていた相手に裏切られた愛人のような転換劇です。
この、周囲を囲んでいた忠臣に暗殺された、という点で、足利義満と、足利義教は、奇妙な一致を見せます。
足利義教はなぜ暗殺されたのか?
足利義教は、足利幕府の権力を最大化するために何をしようとしたでしょう。
つまり、将軍家に刃向えるものをなくそうとしました。
足利義教が将軍になった時、大きな敵が2つありました。
1つは九州。もう一つは鎌倉です。
九州は、幕府の権力に従わず、群雄割拠の状態でした。
特に鎌倉は、代々京都の将軍と対立しており、義教の将軍宣下に対しても使いを出さないなど、将軍に従わない姿勢を明確にしていました。
これらの抵抗勢力は、結局義教により、鎮圧されます。
しかも念入りに謀略を尽くし、ほぼ裏切りによる自滅に等しい形で。
事実、幕府軍は直接鎌倉と戦ってすらおらず、戦さの行方が決したところで京に引き返しています。
その先を読み、淡々とことを成すのも、義教の恐ろしい能力の高さが際立っています。
これだけの強権力を持ち、歯向かう者への処罰を徹底していた義教には、ついに九州・鎌倉の抵抗勢力がなくなります。
そして、鎌倉の勝ち目がないことを察した守護大名たちは、次に守護大名の弱小化が急進する気配を感じ取っていました。
そして、長い間貢献していた自分は、重視されるだろう、と信じていた赤松満祐は、それが「片思い」であることを強く認識させられます。
結果、赤松家を傾けたとしても、義教を討つ、という決断に至らしめました。
「いずれ分断、蹂躙の運命が避けられぬのであれば、赤松の家さえ満祐の代で何このとして悔いはない。」
愛情のもつれ、というのはかくも恐ろしきものなのか。
そうも思わされる一幕です。
くじ引き将軍を見出し、支えた黒衣の宰相三宝院満済は、優秀なバランサー
魔将軍の主人公は、当然六代将軍足利義教です。
しかし、足利義教が将軍になったのも、三宝院満済が、幼少の義教、当時は春寅と会い、そこで会話をしたのがきっかけでした。
その時は、足利義満が、皇室簒奪を計画し、その最終段階というタイミングでした。春寅の兄、鶴若丸を天皇に祭り上げようとしていたのです。
公武融合の危険性を感じつつ、若い三宝院満済は何もできません。
それどころか、
「義満の野望に嫌悪を覚えながら、義満の身を案じる矛盾を、自分でも説明できない。
天皇家の存続を望んでいるのは間違いない。
しかし、義満という強者に惹かれる心も確実に存在し、その行き着く先を見届けたいという欲求も満載の心に揺るぎない根を張っている。
相反する二つの感情が、うちなる心で絡み合って、満済の言動を揺さぶっているのであった。」
義満というカリスマが作る世界を見たい、という思いもあった、義教とは対極的に、人間らしい人であった、というのも魅力の一つかもしれませんね。
第3代将軍義満、第4代将軍義持、第6代将軍義教を支える存在です。
特に、義教の代においては、「論理一辺倒」の義教に対して、周囲の感情や反発に考慮した施策を考え、助言を行う存在として、周囲とのバランサーの役割を果たしていました。
義教がその後の徳川幕府の手本となった
「革命家」という点においては、足利義教の右に出るものはいない、というのが、著者の評価です。
義教が目指した世界を実現したのが、江戸幕府と、徳川家康です。
まさに、将軍の権力が強く、大名たちを強くしすぎない、参勤交代の仕組みを整備しました。さらに、治める場所も将軍の命によって、大名の意思は働きませんでした。
義教も暗殺されなければ、家康のように、守護大名たちが力を持ちすぎないような仕組みを整えたでしょう。いや、家康よりもより強固な仕組みを作ったのかもしれません。
家康も当時とても強い権力を持っていました。しかし、皇室簒奪はしませんでした。徳川幕府の歴代将軍の中で皇室簒奪を企んだ人は、いなかったのではないでしょうか。
これも、天皇の権威と、将軍の武威によって国を治めるのが良い、ということが基盤にあると考えられます。
義教の潔癖さが、比叡山を焼き尽くした
比叡山延暦寺は天台宗のお寺です。最澄が建てた、ということでも習った記憶がある人も多いでしょう。修学旅行でも回りますね。
桓武天皇以降歴代の天皇の御霊を祭り、平安京の鬼門を守る国家鎮護の霊山として、権力者からも、民衆からも大切にされるお寺でした。
義教は、将軍になる前、天台座主の地位にありました。
つまり、天台宗で一番偉いお坊さんです。
その時代から、実は苦々しく思っていたのが、比叡山なのです。
比叡山徒は、腐敗の限りを尽くしている、ということを知っていました。
「あの山法師どもはそうのなり形こそしておれど僧にはあらず。
仏法より銭を尊び、女人を囲い、奢侈美食にふけり、不平あるごとに神輿を担ぎ、刀剣を携え焼き討ち殺戮の無法を神仏に名を借りて行う無頼の徒なり。
かかるものどもを退治したとて、天罰が下るおそれなし。」「余が討たんとするは、天台宗でもそれに帰依する僧侶でもない。
その権威を隠れ蓑に無法を振る舞う悪党どもじゃ。」
かなりの強烈さです。
しかし、それが故に、歴代の天皇、将軍が手を出せずにいました。
今回相手取るのは、義教です。
実は、比叡山徒の中には、義教の敵である鎌倉と通じているものたちもいました。
結果、主要な比叡山徒たちは処罰されます。
残された比叡山徒たちは、最澄から続く根元中堂を焼き、自分たちも殉教することで、義教の非道を世に知らしめようとします。
延暦寺の焼き討ち、というと、織田信長のイメージがあまりに強いですが、義教の時代が、その始まりだったのです。
そして、その中が増長腐敗しているのも、義教の時代からだったようです。
京都は、義教の時代にかなり豊かになった
九州、鎌倉、比叡山や守護大名といった、武士・僧侶との関係がクローズアップされ、民衆の様子はよくわかりませんが、義教の時代は、どうやら争いが少なかったおかげか、かなり民衆は豊かになったようです。
「上さまの御治世となって、今日の街一つ見てもその賑わい発展ぶりには目を見張るものがある。国土を荒らすような大きな戦いもなく、商いは栄え、民は富み、百姓も国人衆も力をつけ、そのぶん人々の欲望も強くなってきている。上さまのごとき御力量なくば、一日とてこの国を無事治めることはかなうまい。」
これは、義満の時代に、若き義教の春寅が、三宝院満済との会話でも同様のことをいっていました。
「父上がこの国をよう治めているため、民が富み、少しずつ力をつけ始めている。」
「力をつけた民はさらにさらに上を求める。決して望みが尽きることはない。また、富みからあぶれる民も出よう。何れにせよ新たな不満が生まれ、ついには強訴に及ぶこととなる」
これが、まさか10歳の若者から出る言葉とは到底思えません。
さらに続きます。
「威で抑えれば、戦や争いは起こらぬ。だから誰も傷つかぬのだ。皆が皆、心安んじて暮らせる世が来るのだ。だから幕府は、将軍家は強くあらねばならないのだ。」
つまり、すべての民が安心して暮らし、その富を享受するには、国家の安定がなくてはならない。そのためには幕府と将軍家を権威あるものにしなければならない。皆が将軍の権威に服し、たとえ争いごとがあろうと、その裁定を絶対のものとして従っていれば、戦は起きぬ。秩序と平和を維持するためには、絶対権力者の存在が必要なのである。
つまり、義教にはすでにこのころから、将軍とは日本をどう統治するべきか、という理想像がありました。
しかも、それは天皇と将軍の権威を両立させる、近代的な姿を示しています。
このころから、民をどのように治めるのか、ということに注力していたのでしょう。その代わりに、守護大名の処遇などにはあまり関心がなかったのかもしれません。
あるいは、民が富めば自然とその領主である守護大名たちも富んでいくのだから、特に問題はないのではないか、ということだったのかもしれません。
しかし、このあたりは、周りの守護大名には全く理解されていませんし、本当にそう思っていたかはわかりません。
いずれにせよ、大きな争いがないと、民が富む、その平和な世の中を作ることを考えていたのは事実でしょう。
まとめ:義教は、「恐怖政治をしいた独裁者」だったのか?
もしかすると、赤松満佑の暗殺がなければ、足利義教の評価は大きく変わっていたのかもしれません。
きっと応仁の乱も起こらず、戦国時代もなく、江戸時代のような時代が続いていたのかもしれません。
そのくらい、足利義教という将軍は、時代の先を行く人のように思います。
しかし、先駆者ゆえに、そのやり方は強引な点が目立ち、反発も多かった、ということでしょう。
もし、満済のような存在がもう1人いたら、あるいはもっと満済が長生きしていたら・・・
そう思わずにはいられない、悲劇の最後です。
九州・鎌倉、比叡山を武力で制圧し、歯向かう者たちを次々と処罰していきました。しかし、それも最初から処罰したばかりではありません。
一度、解放しても、結局意地になって歯向かって来るから、二度目はない、ということです。本当に潔癖です。
その潔癖さも、
「誰も傷つかない、心安らかに過ごせる世」
に向かって邁進しているがゆえに起こったことです。
そして、江戸幕府は義教の理念を完成させました。
逆に、義教という先駆者がいなければ、徳川幕府はうまくいってなかったのかもしれません。
だとすると、義教は本当に悪、なのでしょうか?
そんな疑問が湧いてきます。
くじ引き将軍足利義教とは、先見の明がある革命者だった、というのも、一面として認めるべき重要事項なのではないでしょうか。
おしまい。