刑事裁判は非常に重く、冤罪を起こしてはいけないと歴史的反省をしているものではないか?
今回は収賄の容疑でしかない。
だから、求刑に死刑や無期懲役などの重い刑罰が求められているわけではない。
しかし、刑の重さにかかわらず、冤罪はあってはならず、
曖昧な証拠にて、有罪を確定することは「無罪の推定」の原則に反することのはず。
どう考えても、今回の逆転有罪判決は、「有罪の推定」が働いたとしか思えない。
そもそも、検察はほぼ有罪が決まっている確証がないと検挙しない
検挙の仕組みについては、法務省のホームページに詳しく説明されています。
警察の操作の後に、検察が操作を行います。
そこで一定の証拠が集まって起訴に至る、ということです。
そして、起訴されたもののうち、有罪の判決が下る割合は、99%です。
つまり、検察は、「起訴したからには有罪にしないといけない」という
強迫観念に駆られている面がないと言いきれない。
検察官は、司法試験をくぐり抜け、司法修習生となった人のうち、
成績優秀者がなります。
裁判官も同様です。
検察官も裁判官も、なり方はほとんど同じ、ということは、
シンパシーを感じていても不思議ではないですね。
裁判官の中には、検察の有罪率維持に無意識に協力してしまうような、
そんな「仲間思い」な人がいても不思議ではない、ということですね。
贈賄供述者の証言採取は失敗に終わったのに、証言採用
収賄供述者の、検察と打合せていない生の記憶から証言を得ようと、
裁判所は収賄供述者の証人尋問を実施。
しかし、収賄供述者は、自分の記憶に不安を覚え、
弁護士に、一審の判決書などが収賄供述者に送られ、
生の記憶での証言でない、「用意された証言」が再度現れることになってしまった。
本当に賄賂を渡した記憶が確かならば、
このようなことはする必要性がないはず。
この一点と、検察が執拗なまでにメールの曖昧な文面のみで、
収賄の事実を認定しようとした事実から、
収賄は「作られた事実」であり、
口裏を合わせなければ証言の価値が無いものだった。
少なくとも、有罪認定できるだけの物的証拠が集まっておらず、
「無罪の推定」の原則に基づき、一審の判決を踏襲、
となってしかるべきものではなかったのだろうか?
優秀な検察やエリート裁判官は、若き行政長を潰し、権威を示したかったのではないか?
どうも、こう思えてならない。
最難関試験である司法試験をくぐり抜け、
そのエリートの中から更に選りすぐられたエリートである検察官と裁判官。
行政権は彼ら司法権に並び立つ三権のうちの一つではある。
しかし、普通であれば美濃加茂市長などという、
5万5千人しか人口のいない、岐阜の言ってしまえば田舎の市長なんて、
エリート様からすれば、歯牙にもかけない相手だったのかもしれない。
しかし、あいては、地方議員1期で偶然前任市長がやめ、
史上最年少の28歳で市長の座を得た、
藤井浩人美濃加茂市長である。
こんなに若くして、そこに上り詰めてしまった、
(といっても、そこは藤井市長にとってスタートラインもいいとこなのだが)
若造を、苦々しく思っていたのではないか?
そして、どうせ判決など世間も注目しなければ、
どのような判決を出そうと、クビになる心配もないのが高等裁判所の裁判官だ。
(国民審査のある、最高裁判所の裁判官だって、やめさせられたことなどない)
最年少市長より、司法権の方が上である、と示したかったのではないか、
そんな風に邪推してしまう。
そのくらい、今回の逆転有罪判決は、おかしく見える。
仮に最高裁判所で逆転無罪となったとしても、時間は取り返せない
これは、藤井市長の時間も去ることながら、
市長が裁判に追われている、という状況を強いられた、
美濃加茂市民の時間でもある。
市長が市政に専念していれば、より住みよい美濃加茂になったかもしれない。
しかし、裁判に追われていることにより、
美濃加茂市民はその機会損失を大いに味合わされているのだ。
この事実は、看過できない。
マスコミに対し便宜を図ったのも、
身を守るためだったのではないか、と重ねて邪推してしまう。
マスコミが司法や行政から、どのような便宜を図られているのか、
上杉隆氏がよく、記者クラブの問題について論じていました。
情報収集しても、分析をしない様子は、トランプの大統領選にも現れています。
【11月16日配信】アメリカ大統領選挙トランプ勝利!「かしわもちの反省~なぜ日本のマスコミは間違えたのか?」江崎道朗・小野義典【チャンネルくらら】
いずれにせよ、判決要旨はいつ出るのだろうか?
速やかな情報の公開が必要だ。